和気氏(わけうじ)は、「和気」を氏の名とする氏族。姓氏の一。医道の家として知られる。 備前国和気郡(古くは藤野郡と称した)を本拠とした豪族である。 垂仁天皇の皇子鐸石別命(ぬでしわけのみこと)を祖とすると伝えられる。 「別氏」とも書く。
姓(かばね)は公(きみ)から真人(まひと)、宿禰などを経て774年 (宝亀5年)に朝臣の姓が与えられた。
和気神社(わけじんじゃ)は、岡山県和気郡和気町にある神社。 和気氏発祥の地、和気清麻呂生誕地にある和気氏の氏神。祭神は主神に 鐸石別命、配神は弟彦王、和気清麻呂命、和気広虫姫命。佐波良命 (さわらのみこと、清麻呂の高祖父)、伎波豆命(きはずのみこと、 清麻呂の曾祖父)、宿奈命(すくなのみこと、清麻呂の祖父)、
乎麻呂命(おまろのみこと、清麻呂の父)が合祀されている。 相殿に応神天皇が祀られている。旧社格は県社。
**歴史**
* 古代吉備国は、上道氏、下道氏、吉備氏など複数の豪族が勢力を争っていましたが、6世紀頃に和気氏が台頭し、有力な豪族となりました。
* 和気氏は、大王家との姻戚(いんせき)関係を築き、政治、軍事、文化面で活躍しました。特に、7世紀後半から8世紀前半にかけて、和気清麻呂、和気広虫姉弟は、聖武天皇、孝謙天皇に仕え、政界で大きな影響力を持っていました。
* 和気氏は、奈良時代末期から平安時代にかけて、徐々に勢力を衰退させました。
参考文献 古事記祝詞 清寧天皇(Seinei_Tennou) 1.二王子発見(323ページ) 2.袁祁命と志毘臣(325ページ) 和気でざいなの私見(古事記祝詞の考察)#D.WAKE
針間(はりま)播磨国(はりまのくに)とも、(Harima) 別称:播州(ばんしゅう) 所属:山陽道 相当領域:兵庫県南西部
二王子の時間(その時)、針間國の人民に出会いそれから、 火焚きの仕事をしていた兄弟、うたげに入り・・・舞をまう。
物部(もののふ)の、 我が夫子(せこ)の、 取りはける、 大刀(たち)の、手上(たがみ)に、 丹(に)かき著(つ)け、 其(そ)の緒(を)は、 赤幡(あかはた)を載り(かざり)、 立てし赤幡、見(み)れば 五十隠(いかく)る、 山(やま)の三尾(みを)の、 竹(たけ)をかき苅(か)り、 末押(すゑお)しなびかすなす、
八(やつ)絃(を)の琴(こと)を 調(ととの)ふる如(ごと)、 天(あめ)の下治(をさ)め賜ひし、 伊邪本和気(いざほわけ)の、天皇(すめらみこと)の御子(みこ)、 市邊(いちのべ)の、押齒王(おしはのみこ)の、奴末(やつこすゑ)。
舞を終えて天皇の御子と知らされ、驚き泣き悲しむ・・・ その時間二王子と出会えてそれから・・・
和気(わけ)わこ(訳)
武人の(勇武な人)、我が兄弟の、腰に帯びている、 太刀の柄に、赤色を塗付け、その緒は赤幡をかざり 立てし赤幡、見れば、い隠(かく)る、 山の尾根の、竹を刈り取って、その竹の先の方を押し靡かす、 八絃の琴の調和をととのうこと、天の下治め賜ひし、 伊邪本和氣、天皇の御子、市邊の、押歯王の、奴末。