天平五年(七三三)に生まれる。奈良の都に出て武官として出仕、 近衛将監となった。
神護景雲三年(七六九)、僧道教が皇位を望む時、宇佐八幡宮(現宇佐神宮) に勅使として詣で、神託を受けて復奏、その野望を阻み国家の危機を救った。 このことにより改名の上、大隈国(現鹿児島県牧園町)に流され、 二年後許されて都に戻り本姓本位に復した。 その後、桓武天皇の信頼を得て、摂津大夫・民部大輔・民部卿として
長岡京の造営、摂津・河内両国の治水工事に当たった。 延暦十三年(七九四)清麻呂の建言により平安京に遷都、造営大夫として 新京の建設に尽力して、同十八年没した。年六十七歳。
我独慙天地(われひとりてんちにはず)」とは。 この書は、和気清麻呂公の御真筆と伝えられているもので、 「我独(われひとり)天地(てんち)に慙(は)ず」と読む。
仰(あお)いで天(てん)に愧(は)じず、俯(ふ)して人に(は)じず。 漢文名言辞典、人間のあり方(心情)公明正大
所 在 地 : 〒709-0412 岡山県和気郡和気町藤野1385(藤公園隣り)
和気神社(わけじんじゃ)は、岡山県和気郡和気町にある神社。旧社格は県社。和気氏発祥の地、和気清麻呂生誕地にある和気氏の氏神として知られる。
姉弟の生誕地 広虫姫と清麻呂公の父親である乎麻呂は、郡司を勤めていました。従って、姉弟は藤野郡の郡衙のあった、藤野郷で生まれました。2人は成人して上京するまで、藤野郷の父母の元で成長しました。
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天平二年(七三〇)に生まれる。孝謙上皇に仕え、勅を伝宣する女官を務めた。 上皇に従い剃髪し法均と号した。
天宝宝字八年(七六四)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の逆徒の助命を嘆願して 死刑を流罪に改め、乱後の孤児八十三名を養子として育てた。 これはわが国最初の孤児院の開設である。 神護景雲三年(七六九)、道鏡事件により備後国(現広島県三原市、 御調八幡宮のあたり)に流されたが、光仁天皇の即位により許されて都に帰った。
その後も典蔵(くらのすけ)・典侍(ないしのすけ/てんじ)として宮中に仕え、 延暦十八年(七九九)に没した。年七十歳。
生(う)まれながらにして貴(とうと)き者無(な)し。 漢文名言辞典、人間のあり方(修養)努力